修行

高野山には護摩行という修行がある。
訪れたときに、たまたま一人のお坊さんが修行を行っていたので、邪魔にならないように、そっと横から護摩の炎を撮った。
入口に修行と書いてあったので、祈祷ではないのであろう。
つまり何かを祈願するのではなく、己の精神を高めるために行っている行ということだ。
本来の宗教は自らを清め高めるものだったように思う。
仏教の開祖、仏陀ことガウタマ・シッダールタも、もともとは自らの悟りを開くために修行を重ねた。
願いを聞くことはそのあとだったと思う。
空海を初め、修験道の役小角、果ては陰陽道の安倍晴明に至るまで、法力の多くはフィクションであろう。
けれど修行によって得られた知識や哲学、または物の道理は、他の人とは一線を画すものがあったはずだ。
修行という形ではないにしろ、自らを高める行いは、今の時代に必要なことだと思う。
